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まことお兄さんとよしお兄さんを見て思った、体操、さらにはおかいつの優しさ その2

この記事は、「まことお兄さんとよしお兄さんを見て思った、体操、さらにはおかいつの優しさ その1」の続きです。

この記事では、おかいつにさりげなく散りばめられてきたたくさんの優しさについて考え、述べます。
いつもと同様、私の個人的な意見や感想です。

これまでの記事で、「おかあさんといっしょは、どんな子どもであっても受容してくれる、楽しませてくれる番組であると思うし、また、そうであってほしい番組である」という趣旨のことを書いてきました。
そして私は、昔も今も、「おかあさんといっしょ」という番組は、私のこの願いを叶え続けてくれていると思っています。

四人のお兄さんお姉さんが、収録全体を通じて、ひたすらに子どもに優しさを注いでいることは、番組を見ればすぐにわかります。
そしてその子どもとは、スタジオにいる、つまりお兄さんお姉さんの目の前にいる子どもだけではなく、テレビの向こうにいる、日本中、世界中のこどもであることも。

たとえば、カメラ目線と、スタジオにいる子どもに合わせる目線の、絶妙なバランス。
ずっとスタジオにいる子どもたちに顔を向けていれば、テレビの前の子どもたちは、こっちを向いてくれないと寂しくなるかもしれません。
逆に、ずっとカメラ目線ならば、せっかくスタジオに来た子どもたちが、近くにいるのに自分を見てくれないと、やっぱり寂しくなるかもしれません。
その両方に対し、「僕は、私は、君を見てるよ!」と、確かに伝える目線の運び方、バランスの絶妙さ。
今日のまことお兄さん。
べるがなるで踊らず立っている女の子に対し、かがんで顔を向ける場面と、正面を向いてしっかり体操する場面のバランスが素晴らしかったと思います。

この点に限らず、最近のまことお兄さんとあづきお姉さんが、子どもたちに目線や体を向ける場面が多くなってきていることを、私はとても好ましく見ています。
また、一週目にそのような場面が少なかったのは、緊張もあったと思うのですが、振り付けを正しく披露するという意図もあったのではないかと勝手に思っています。
スタジオにいる子どもたちに顔や体を向けることは、素敵なことではあるけれど、他方では正しい振り付けの放棄であり、イレギュラーなことなんですよね。
最初からそれをやってしまうと、正しい振り付けの全貌を示すものが残らなくなってしまい、一緒に体操をしたい子どもや大人を戸惑わせてしまうかもしれない。
変顔も同じで、正しく整った表現ができるからこそ崩しの楽しさが生まれるわけで、型通りできない者が型破りをやってもそこには何の魅力も楽しさもない。
健やかで正しい笑顔を披露してからでないと、それを崩す楽しさは分からない。
このような思惑があって、最初はあくまで体操としての正しさが優先されたのではないかと妄想しています。
もちろん、もちろん、緊張もなさっていたと思うのですが。
…長くなりました。
次に進みます。

たとえば、花が咲いたり、星が輝くように鮮やかな表情の作り方。
子ども向け番組では特に、大げさと言ってもいいくらいに「楽しいお顔」「嬉しいお顔」「悲しいお顔」など、様々な表情をはっきりくっきりと作る必要があります。
おそらく、普通に生活している大人が、何の訓練もなくあの表情を出すのは不可能だと思います。
社会人になってから自分のプレゼンやお稽古ごとの発表会等を録画して見た方ならご存知かもしれませんが、「私、普段こんなに世界を呪ってそうな顔してんの?…うわっ、笑ってるつもりなんだろうけどつまんなそう~、うわっ、表情筋仕事してない~」…と、まあビックリするほどに顔が死んでることが多々あるわけです。
表情を作ることにそもそも意識が向いていなかったり、意識が向いていても緊張が邪魔したり、自分が動かしているつもりほど顔が動いていなかったり。
また、そもそも、大人どうしのコミュニケーションでは、表情があまり変わらずとも特に困らない…どころか、表情が豊かすぎる人が悪目立ちしてしまうことすらあります。
お兄さんお姉さんのあの豊かな表情は、訓練や経験に基づき、子どもに向けるものとして最適化されたものと言えます。
では、その表情はまがい物なのかと言うと、絶対にそんなことはなく、そこには確かに心からの感情が溢れているのがすごい。
プロなのです。
ゆういちろうお兄さんの、笑顔、泣き顔、困り顔。
整った顔を惜しげもなく、これでもかと豊かに動かして、全力で感情を表してくれる、その表現力の幅広さと言ったら。

たとえば、いきいきと、よく通って穏やかな声。
発声にも、やはり訓練が必要です。
大きな声であればあるほど、強い調子になり、威圧的になりやすい。
小さな声はそもそも聞こえないし、たくさんの子どもを前に、元気がないのはやはりよろしくない。
感情のこもらない平坦な声は心に響かないけれど、激情にとらわれすぎた声は尖っていて、受け止める側を傷つけかねない。
大きさ、発音の明瞭さ、高さ低さ、イントネーション。
同じ言葉でも、声の要素一つでその印象は大きく変わってしまいます。
心ある言葉であっても、声にその心が表れていなければ、子どもたちは受け止めてくれないでしょう。
字面がどんなに立派でも、心なき言葉が、決して子どもたちの心まで届かないように。
お兄さんお姉さんの声は、子どもたちを時に励まし、時に笑わせ、時に安心感で満たす…子どもたちが常に一番キャッチしやすい形で耳に伝わる、そんな魔法のような声です。
あつこお姉さんの、凛と気品がありながら、途方もなく優しく響く声。
私は、すりかえかめんのときの「ねえすりかえかめん、もう一回見せて?」と言うあつこお姉さんの声が、世界で一番優しい声だと思っています。
もう聞けないのか…と思うと悲しくなりますが、でもあつこお姉さんの声を毎日聞ける幸せはまだありますから。

ところで、あづきお姉さんの声はかなり張りがあって、歌のお兄さんお姉さんと類似した、舞台的な発声だと感じるのですが、まことお兄さんは割と日常の延長的な発声だと感じます(それが悪いということではない)。
体操のお兄さんお姉さんも、ボイストレーニングを受けたりするのかな?気になります。

たとえば、確かな歌唱力や身体能力がありながら、子どもが受け止めやすい形に表現をチューニングすること。
声の部分で触れたように、歌や演技にあまりにも感情がこもってしまうと、あるいはあまりにも感情を排してしまうと、それはただのひとりよがりで、子どもの存在を無視した表現になってしまいます。
また、子どもの嬉しさ、楽しさを最優先するためには、失敗するかもしれない歌唱法や演技をあえて選択することは歓迎されないでしょう。
あえて表現の尖りをならし、表現や演技を最適化すること。
リスクは取らず、確実にできることを、確実に、最高の形で示すこと。
けれど、子供だましにはならず、本質的に優れた表現を見せること。
このバランスを取るのは、とても難しいと思います。
あづきお姉さんの忍者としての身のこなしや、からだダンダンのステップ。
しなやかでなめらかで、はっきり美しいとわかるのですが、子どもがついてこられなくなるようなことは全くなく、むしろ親しみやすく、真似しやすい。
常に子どもに見られること、子どもとともに表現することを意識しているのだと思います。
あとですね、まことお兄さん、当然のように助走なしのバク宙を決めていますが、これはとんでもないことなのでは?
どんな形であっても、ファミリーコンサートでのお二人の勇姿を見るのが、今からとても楽しみです。

そうそう、通常の収録とファミリーコンサートでは、最適化のチューニングの具合が少し違っているように感じられるのが興味深いです。
ファミリーコンサートでは、舞台に子どもたちが上がることはないため、お兄さんお姉さんの表現者としての要素が強くなり、受容者としての要素が弱くなると考えられます。
その結果が、よしお兄さんのアクロバットや舞台を縦横無尽に使った全力ブンバボンであり、あつこお姉さんやりさお姉さんの悪役としての弾けた演技であり、ゆういちろうお兄さんのセクシーささえ感じさせる赤鬼と青鬼のタンゴであり、スペシャルステージの、みんなが汗を流しながら感極まった様子で歌う「Say! goodbye~明日を見つめて~」(テレビで見ても泣いちゃうでしょこんなの…)だと思うのです。
子どもたちは、大好きなお兄さんお姉さんの、いつもとはちょっと違う、プロとしての素晴らしい表現を受け止めます。
そして、特別な思い出を胸の宝箱に納めて家路につき、また月曜日からの放送を楽しみに眠りにつく。
そんな、幸福な好循環が生じているのではないでしょうか。

あーどんどん長くなる。
まだ続いてしまうのです。
次回は、番組全体の構成による受容、ということについて書こうと思います。