緊張と緩和と臆病と大胆

書きたいことだけ

劇場版キングダムが最高だった(前編)

日曜日にひとりで劇場版キングダムを見ました。
最高でした。


もうほんと、お願いだから、みんな見よう。

私は、未だに思い返すと高揚してしまうし、次いつ行こうかな~?と必死にスケジュール調整している有様です。
ちょっともうあまり体裁とか考えずに、ほとばしる思いだけ殴り書いていきます。

以下原作漫画及び映画の内容に一部触れるのでご注意ください。
とはいえ、こちらを読んでから劇場版を見ても支障はないと思います。
読まずに見てももちろん何も問題はない。

まずは、主要人物である信、漂、政とそれぞれの役者さんについて。
全て敬称略とさせていただきます。

信/山﨑賢人
主人公、信を演じた山﨑賢人。
とんでもねえイケメン。
漫画原作と言えば山﨑賢人、山﨑賢人と言えば漫画原作と連想してしまうほどの活躍ぶりだけに、雑にカテゴライズされた安易なキャスティングだったらどうしよう…と思っておりましたが。
いた。信がいたよ。
奴隷の身分から天下の大将軍へと羽ばたく、その第一歩を踏み出した信がいました。
原作の信は、目や口がかなり漫画的に大きく動くため、実写でやると違和感が出そうなのですが、そんなものはなかった。
じゃあ、違和感が出ないように控え目な表現になっているかというと、それも全くなかった。
山﨑賢人が目を見開き、口を歪め、怒りや憤りを叫び、そして顔中に皺を寄せ声を上げて泣く姿は、まさしく原作初期の、約束と激情に突き動かされて走り出した信そのものでした。
また、容赦のない粗野な振る舞いや、我流と一目で分かる剣の振るい方には、見ていて緊張感を覚えるほどでした。そこ、手加減しないんだと。

漂/政/吉沢亮
主人公の盟友である漂と、漂と瓜二つの若き王、政を演じたのは吉沢亮
とんでもねえイケメン。
そして、多くの方がすでに言及されているとおり、一人二役の演技がもう、本当に本当に素晴らしかった。
同じ顔なのに、違う顔。違う人。

信同様に奴隷の身分であった漂は、端正な顔が崩れるのもいとわずに、笑い、叫ぶ。
無邪気で、ときに可愛らしくすらあるけれど、内には強さと優しさを秘めた少年。
これに対し、王族たる政は、頬を動かさずに動く唇に、威厳を持って響くけれど抑制の効いた声。
つとめて淡々とあろうとしている、何重もの思慮のベールで自らを覆った、ぞっとするほど美しい男性。
また、二人の立ち振舞いや剣さばきも、それぞれの背景に基づいた、全く異なるものとなっています。
このような見事な演じ分けの中でも、特に目の違い、目線の演技は凄まじかった。
漂は、くるくるといたずらっぽく動く、丸くぱっと開かれた目。
目線は常に、目の前にいる人物や、今まさに向かうべき、直近の場所をひしと見据えている。
政は、悠然と構えて黒目の動きは控えめ、伏し目がちで切れ長の目。
目線はどこか遠く、目の前のファクトだけでなく、奪還すべき王都に、さらには統一すべき中華全土にまで向けられている。
目だけで人格を演じ分けている、素人にもはっきりと別の人間だと伝わる、この力。

劇中、漂と政の二人が対峙し、語り合うシーンがあります。
役者の技量によってはふざけたコントのようになってしまう、難しい場面です。
しかし、一人二役などとは全く感じさせなかった。
偶然にも顔が似ていただけの、それぞれに全く別の人生を生きてきた二人の人間が語り合っていました。
本当に同じ役者さんなの?漂と政のような二人が現実にもいて、その二人を連れてきたんじゃないの?と思わせるほどに。
二人は、互いに覚悟を決め、互いを認め合いながら、それを全く異なることば、表情、仕草で発露させていました。

そしてさらに、物語が進むにしたがって、政は一人の人間として、新たな顔を見せていきます。
特に終盤、成蟜と対峙したとき。
自ら抑制のベールを脱ぎ捨て、王としての振る舞いを後退させ、一人の人間としての感情を露にするその姿の、気高さ、凛々しさと言ったら。
吉沢亮、そら恐ろしいです。

また、これら主要人物のバランスも非常に良かった。
先ほど書いたように、本作の信は、まだ第一歩を踏み出したばかりの、奴隷出身の未熟な少年です。
原作の漫画が既に54巻まで発行されているのに対し、今回映像化されたのは序盤の5巻分に過ぎないのです。
山﨑賢人の信が、あまりに忠実に信であったがゆえに、奴隷上がりの粗暴さが悪目立ちしてしまい、観客が感情移入できずに引いてしまう(信がいた世界と同じように、彼が奴隷であることによって、善良な一般市民階層との断絶が生じてしまうわけですね)おそれがあるのではないかと案じていたのですが、そこをつなぎとめるのが漂の快活さであり、政の気品であったと思います。
ここでも、信を支え、羽ばたかせるのは、漂であり、政だったんだな。

次回は他の登場人物と役者さんについて書きます。
もちろん、おかいつのことも忘れてないです。
好きなものがたくさんあって嬉しいな。

まことお兄さんが吠えた日

平成31年4月23日、とうとうまことお兄さんが
「きょうりゅうに なるよ!」
の後に
「がおーっ!!」
と吠えました。

最初期の
「きょうりゅうに なるよ!…」
(二次会に行くの?行かないの?そもそもこの時間なんなの?的若干の気まずさを孕んだ微笑)、
その後の
「きょうりゅうに なるよ!」
(口パクで、がおー!又はカアーッ!と言っている動き)
を経て、ついに。
口パクがだんだん仕上がってきていたので、いつか来るんじゃないか?いやしかし、この先5年10年ずっと口パクを貫くのも面白いな…と思っていたところ、その日は何の前触れもなくやってきたのでした。
しかも同日、「ボログツブギ」のまことお兄さん、あづきお姉さんバージョンも披露され、ちょっと感情が処理しきれない一日でした。

当日のツイートを振り返ると狂気の沙汰というか、私がおかあさんといっしょのスタッフならファミリーコンサートもスタジオ観覧も絶対当てない(ファミリーコンサートは落ちました)だろうと思わせるヤバさに満ちていましたが、この熱量を捨て置くのもどうかと思い、自分の備忘録的に残しておきます。


まことお兄さんとあづきお姉さんのクリップ、果たして何が来るのか、いつ来るのかと思っていたら突然の、まさかのボログツブギ。
もっと華やかだったり今っぽい曲が来るのかと勝手に思っていました。
しかし考えてみると、親世代から歌い継がれてきた息の長い曲で、大きな靴というアイテムを目立たせつつハンデとして使うことでまことお兄さんとあづきお姉さんの身体能力の高さを示せるというベストチョイスではないか。


まことお兄さんが現役時代あん馬に取り組んでいたことを知っており、かつ、「私はそれを知っているんです」ということをアピールしたい心理に満ちた、ごく短文でありながらこいつヤベえな感の高いツイート。


圧倒的「今」に怯える昭和世代。
あづきお姉さんのスカートが本当に可愛い。
ユナイテッドトウキョウ(大好き。大好き。)みがある。
ああいうの履きたいのですが、センスがないので合わせるトップスが黒無地カットソーくらいしか思いつかず、そうすると「謎のクリエイティブモードおばさん」的な、ファッションというより主義主張で服を着ている人のようになってしまうんですよね。
自然派はウエストをマークしていない綿か麻のゆるゆるワンピを着る、的な…。
あづきお姉さんはカジュアルにひたすら可愛く着ていたな!時が経てばレトロファッションとなるのか、それともスタンダードなカジュアル服となるのか。


何か感極まっておかしくなってますね。
でも、シンプルな舞台にぽつんとあん馬が置かれて、まことお兄さんがめちゃくちゃすごいあん馬をやりながら「とぅ~もろ~♪とぅ~もろ♪あし~たはしあわ~せ~♪」って朗々と歌ってたらめちゃくちゃ楽しくないですか?一流のエンタメじゃないですか?ちょっと往年のダウンタウンのコントみがある。


ついに来たその時に大いに興奮し、シメに分析。何目線かな?
でも共感してくださった方が割といらっしゃって嬉しいです。
そういえばラストでまことお兄さんが「ウフッ…」て感じの笑顔になっていたのですが、あれがもしも(ついに言ったった…)とか、(師匠…ついに言いましたよ…)の達成感の笑みだったら楽しいなあ。
ただの慣れからくる笑顔だったとしても、もちろん喜ばしい。

こうして大満足の朝を過ごし…


当然のように二周目(夕方の再放送)を満喫している。
勢いだけでツイートしていますが、後で確認したところ、体操競技のツイートには明確な誤りがあり、男子は「段違い平行棒」ではなくただの「平行棒」でした。
関係者の皆様にお詫び…しようかとも思いましたが、この点をお詫びするなら私のツイート全てについて土下座しないといけなくなるな…どのツイートも誤っていると言えば完全に誤ってるよな…道を…。

それと、文字数が足りなくてツイートでは書けませんでしたが、男子個人体操競技には跳馬もありますよね。
楽しい曲の「とんでったバナナ」で、ものすごい踏み切りから跳馬の大技を決め、そのままどこまでも飛んでいくまことお兄さんとか良くないですか?
競技としては失敗なんでしょうけど、そらをおよいでうちゅうをのぞく、そんなダイナミックな「とんでったバナナ」に扮するまことお兄さん、見たくないですか?
アッでも最後食べられちゃうな…。

まとめとしてはこれですね。

こんないいものをタダで見せていただいて良いのか?感が止まらないので、今後の課金のチャンスは見逃さないし、NHK歳末助け合い募金も増額しようと思います。
明日(ではなく今日だし何ならあと数時間後だし、これから米を研がなければならない)からの放送も目が離せません。

私は相対的

職場における私のポジションはとても中途半端だ。
年下の先輩も年上の後輩もいる。
年上の部下も多い。年下の部下も多い。
あ、年下の上司となるとたぶんまだいない。

私はまあまあ経験のある中堅どころという扱いで、案件によっては部下や後輩の(時には先輩に対しても)指揮を執る、実動部隊の責任者になることもあれば、実動には関わらず、部下が担当した案件に決裁のハンコをつき、管理責任者として振る舞うこともある。
その一方で、上司や先輩の指揮の下、一人の兵隊として現場でひたすら実動に当たることもある。
どの立場も楽しいし、どの立場も経験することで、それぞれの立場に対する理解が深まって、仕事全体をうまく回せるようになる。

私は中途半端な立場だ。
上司や先輩との関係では、私はハラスメントの客体になる。
部下や後輩との関係では、私はハラスメントの主体になる。
私の方が指揮者、管理者、決裁者として、職務上大きな力を持っているから。
私が女性で、相手が男性であっても、私がセクハラ、パワハラ、その他もろもろのハラスメントをしうる側であることには変わりない。
もちろん、相手が同性であっても。

私は「女のくせに」という言葉が大嫌いだし、それと同じくらい「男のくせに」という言葉が大嫌いだ。
ただ女性だというだけで、常に被害者として振る舞うことが許されるというのは思い上がりだ。
ただ女性だというだけで、罪のない男性を傷つける言葉を発しても許されるなどという傲慢さは絶対に持ちたくない。
他方で、勘違いしきった男性から繰り出されるセクハラ、パワハラには腸が煮えくり返る思いを何度もしてきた。
なんで男だというだけで、こんなにも思い上がれるのかと心底不思議だったし、なんでこんな人がここまで生きてこられたんだろう、誰かの恨みを買ってこの世から消されていてもおかしくないのでは?と思うくらい失礼な仕打ちを受けることもあった。

それでも、新人だった頃は、自分のことだけ考えて適当にあしらっておけば良かったけれど、ぼちぼち後輩に女性が増えてきたので、自分の行動が後輩女性にどのような影響を及ぼすのかも考えないといけない。
毅然と振る舞うこと、怒ること。
自分だけでなく、自分の後に続く人のために。

向き合う相手によって自分の色が変わるなんて、まるでコウモリか何かのようだ。
でも、きっと誰しも多かれ少なかれ、そういう振る舞いをしなければならないようにできている。
それなら楽しく軽やかにやりたい。

性別にとらわれず、縁のあった人には誠実に、真剣に接したい。
優しさや気遣いをもらったときには、返したい。
たとえば、気弱で非力な男の人が部下になったなら、上司としてその人の良さを見つけて引き出したい。
口が裂けても、男のくせにだらしがない、情けない、なんて言いたくない。
自分が男性にされた嫌なことを、罪のない部下や後輩にぶつけて溜飲を下げるような、そんな不幸の連鎖、不幸の拡大再生産はしたくない。

女の人でも同じだ。
相手がどんな働き方、生き方を望んでも、それを尊重したい。
私がたまたま同性で、私がたまたま上司だからと言って、自分の生き方が唯一の正しい道のりだなんて相手にご高説を述べるような勘違いはしたくない。

属性にとらわれず、過去を引きずらず、ただただ素直に、目の前にいる人と向かい合いたい。
仕事はたかが仕事だけど、でもやっぱり人格の幾ばくかを懸けてするもので、そうやって取り組んだ仕事にはどうしたって、その人の生きざまが表れてしまうと思っている。

まことお兄さんとよしお兄さんを見て思った、体操、さらにはおかいつの優しさ その2

この記事は、「まことお兄さんとよしお兄さんを見て思った、体操、さらにはおかいつの優しさ その1」の続きです。

この記事では、おかいつにさりげなく散りばめられてきたたくさんの優しさについて考え、述べます。
いつもと同様、私の個人的な意見や感想です。

これまでの記事で、「おかあさんといっしょは、どんな子どもであっても受容してくれる、楽しませてくれる番組であると思うし、また、そうであってほしい番組である」という趣旨のことを書いてきました。
そして私は、昔も今も、「おかあさんといっしょ」という番組は、私のこの願いを叶え続けてくれていると思っています。

四人のお兄さんお姉さんが、収録全体を通じて、ひたすらに子どもに優しさを注いでいることは、番組を見ればすぐにわかります。
そしてその子どもとは、スタジオにいる、つまりお兄さんお姉さんの目の前にいる子どもだけではなく、テレビの向こうにいる、日本中、世界中のこどもであることも。

たとえば、カメラ目線と、スタジオにいる子どもに合わせる目線の、絶妙なバランス。
ずっとスタジオにいる子どもたちに顔を向けていれば、テレビの前の子どもたちは、こっちを向いてくれないと寂しくなるかもしれません。
逆に、ずっとカメラ目線ならば、せっかくスタジオに来た子どもたちが、近くにいるのに自分を見てくれないと、やっぱり寂しくなるかもしれません。
その両方に対し、「僕は、私は、君を見てるよ!」と、確かに伝える目線の運び方、バランスの絶妙さ。
今日のまことお兄さん。
べるがなるで踊らず立っている女の子に対し、かがんで顔を向ける場面と、正面を向いてしっかり体操する場面のバランスが素晴らしかったと思います。

この点に限らず、最近のまことお兄さんとあづきお姉さんが、子どもたちに目線や体を向ける場面が多くなってきていることを、私はとても好ましく見ています。
また、一週目にそのような場面が少なかったのは、緊張もあったと思うのですが、振り付けを正しく披露するという意図もあったのではないかと勝手に思っています。
スタジオにいる子どもたちに顔や体を向けることは、素敵なことではあるけれど、他方では正しい振り付けの放棄であり、イレギュラーなことなんですよね。
最初からそれをやってしまうと、正しい振り付けの全貌を示すものが残らなくなってしまい、一緒に体操をしたい子どもや大人を戸惑わせてしまうかもしれない。
変顔も同じで、正しく整った表現ができるからこそ崩しの楽しさが生まれるわけで、型通りできない者が型破りをやってもそこには何の魅力も楽しさもない。
健やかで正しい笑顔を披露してからでないと、それを崩す楽しさは分からない。
このような思惑があって、最初はあくまで体操としての正しさが優先されたのではないかと妄想しています。
もちろん、もちろん、緊張もなさっていたと思うのですが。
…長くなりました。
次に進みます。

たとえば、花が咲いたり、星が輝くように鮮やかな表情の作り方。
子ども向け番組では特に、大げさと言ってもいいくらいに「楽しいお顔」「嬉しいお顔」「悲しいお顔」など、様々な表情をはっきりくっきりと作る必要があります。
おそらく、普通に生活している大人が、何の訓練もなくあの表情を出すのは不可能だと思います。
社会人になってから自分のプレゼンやお稽古ごとの発表会等を録画して見た方ならご存知かもしれませんが、「私、普段こんなに世界を呪ってそうな顔してんの?…うわっ、笑ってるつもりなんだろうけどつまんなそう~、うわっ、表情筋仕事してない~」…と、まあビックリするほどに顔が死んでることが多々あるわけです。
表情を作ることにそもそも意識が向いていなかったり、意識が向いていても緊張が邪魔したり、自分が動かしているつもりほど顔が動いていなかったり。
また、そもそも、大人どうしのコミュニケーションでは、表情があまり変わらずとも特に困らない…どころか、表情が豊かすぎる人が悪目立ちしてしまうことすらあります。
お兄さんお姉さんのあの豊かな表情は、訓練や経験に基づき、子どもに向けるものとして最適化されたものと言えます。
では、その表情はまがい物なのかと言うと、絶対にそんなことはなく、そこには確かに心からの感情が溢れているのがすごい。
プロなのです。
ゆういちろうお兄さんの、笑顔、泣き顔、困り顔。
整った顔を惜しげもなく、これでもかと豊かに動かして、全力で感情を表してくれる、その表現力の幅広さと言ったら。

たとえば、いきいきと、よく通って穏やかな声。
発声にも、やはり訓練が必要です。
大きな声であればあるほど、強い調子になり、威圧的になりやすい。
小さな声はそもそも聞こえないし、たくさんの子どもを前に、元気がないのはやはりよろしくない。
感情のこもらない平坦な声は心に響かないけれど、激情にとらわれすぎた声は尖っていて、受け止める側を傷つけかねない。
大きさ、発音の明瞭さ、高さ低さ、イントネーション。
同じ言葉でも、声の要素一つでその印象は大きく変わってしまいます。
心ある言葉であっても、声にその心が表れていなければ、子どもたちは受け止めてくれないでしょう。
字面がどんなに立派でも、心なき言葉が、決して子どもたちの心まで届かないように。
お兄さんお姉さんの声は、子どもたちを時に励まし、時に笑わせ、時に安心感で満たす…子どもたちが常に一番キャッチしやすい形で耳に伝わる、そんな魔法のような声です。
あつこお姉さんの、凛と気品がありながら、途方もなく優しく響く声。
私は、すりかえかめんのときの「ねえすりかえかめん、もう一回見せて?」と言うあつこお姉さんの声が、世界で一番優しい声だと思っています。
もう聞けないのか…と思うと悲しくなりますが、でもあつこお姉さんの声を毎日聞ける幸せはまだありますから。

ところで、あづきお姉さんの声はかなり張りがあって、歌のお兄さんお姉さんと類似した、舞台的な発声だと感じるのですが、まことお兄さんは割と日常の延長的な発声だと感じます(それが悪いということではない)。
体操のお兄さんお姉さんも、ボイストレーニングを受けたりするのかな?気になります。

たとえば、確かな歌唱力や身体能力がありながら、子どもが受け止めやすい形に表現をチューニングすること。
声の部分で触れたように、歌や演技にあまりにも感情がこもってしまうと、あるいはあまりにも感情を排してしまうと、それはただのひとりよがりで、子どもの存在を無視した表現になってしまいます。
また、子どもの嬉しさ、楽しさを最優先するためには、失敗するかもしれない歌唱法や演技をあえて選択することは歓迎されないでしょう。
あえて表現の尖りをならし、表現や演技を最適化すること。
リスクは取らず、確実にできることを、確実に、最高の形で示すこと。
けれど、子供だましにはならず、本質的に優れた表現を見せること。
このバランスを取るのは、とても難しいと思います。
あづきお姉さんの忍者としての身のこなしや、からだダンダンのステップ。
しなやかでなめらかで、はっきり美しいとわかるのですが、子どもがついてこられなくなるようなことは全くなく、むしろ親しみやすく、真似しやすい。
常に子どもに見られること、子どもとともに表現することを意識しているのだと思います。
あとですね、まことお兄さん、当然のように助走なしのバク宙を決めていますが、これはとんでもないことなのでは?
どんな形であっても、ファミリーコンサートでのお二人の勇姿を見るのが、今からとても楽しみです。

そうそう、通常の収録とファミリーコンサートでは、最適化のチューニングの具合が少し違っているように感じられるのが興味深いです。
ファミリーコンサートでは、舞台に子どもたちが上がることはないため、お兄さんお姉さんの表現者としての要素が強くなり、受容者としての要素が弱くなると考えられます。
その結果が、よしお兄さんのアクロバットや舞台を縦横無尽に使った全力ブンバボンであり、あつこお姉さんやりさお姉さんの悪役としての弾けた演技であり、ゆういちろうお兄さんのセクシーささえ感じさせる赤鬼と青鬼のタンゴであり、スペシャルステージの、みんなが汗を流しながら感極まった様子で歌う「Say! goodbye~明日を見つめて~」(テレビで見ても泣いちゃうでしょこんなの…)だと思うのです。
子どもたちは、大好きなお兄さんお姉さんの、いつもとはちょっと違う、プロとしての素晴らしい表現を受け止めます。
そして、特別な思い出を胸の宝箱に納めて家路につき、また月曜日からの放送を楽しみに眠りにつく。
そんな、幸福な好循環が生じているのではないでしょうか。

あーどんどん長くなる。
まだ続いてしまうのです。
次回は、番組全体の構成による受容、ということについて書こうと思います。

猛烈に眠い

引っ越した。
一歳時の面倒を見ながら引っ越しのあれこれをこなすのはとても大変だ。
というか全然こなしてない。
新居はまだまだ散らかっている。
引っ越しの回数が多い上に、物も多いので毎回大変なことになる。
引っ越しのたびに収納の容量が変わるし、前の家ではうまいこと納まっていた家具が意味不明にはみ出したりするから、途方に暮れてカラーボックスとかスチールラックを買い足さないとどうにもならない。
それも、今回はニトリ、前回はコーナン、その前はコメリ、その前はジョイフル本田、みたいにとにかく最寄りのところでテキトーに買うので、我が家には微妙に色や大きさの違うカラーボックスが無秩序に溢れている。
こんまりが泣いて助走つけながら殴るレベルである。
俺だってモノトーンで統一された、無駄なもの一つない部屋に住みてえよと泣きたい。
でも20年分のディズニーグッズとか電子書籍でも買ってるのに紙でも買った漫画とか謎の雑貨とかがあるから無理だ。あとベビー&キッズ用品もあるから無理だ。主たる原因は私の方だ。

基本的に社宅に住むことにしており、こちらに選択の余地はないのだが、どの家、どの部屋にも良いところと悪いところがあった。
今回の家だが、私の部屋となった和室の床がすり鉢状にへこんでおり、壁際に設置したタンスがものすごく傾いている。
トリックアートみたいだけど現実だった。
あとお風呂が薄暗くて辛気くさくてお湯がなかなか出ない。
囚人の風呂じゃねえか。
あとエレベーターに女性の裸体とか男性器の落書きが施されており、それを消そうとしてなにかを塗った結果、かえって鮮やかに裸体と性器が浮き出ていた。
スラムじゃねえか。
一部住民が自治による浄化を試みるも、結局破壊と暴力がすべてを飲み込んでいくスラムじゃねえか。
そんななのに、キッチンとリビングを隔てる壁に切れ込みのように隙間が空いており、アイランドキッチン気取りである。
そこをコジャレる前にやれることがたくさんある。

悪いところを挙げすぎたけど、全体的にキレイだし(えっホントに?)広いし周りの景色もいいし、顔を合わせる住民のみなさんはいい人だし、実際のところそこまで不満はない。
不満はないとまで言うと言い過ぎた。
裸体と性器は消してくれ。
でも、まあこんなもんかと思っている。

実は、近所のスーパーが、我々の引っ越しを歓迎するかのようにハーゲンダッツ四割引セールを実施していたので、すっかり住環境に満足しているのであった。
躊躇なくハーゲンダッツを食べられる生活、最高!
こんなことで満足しているようでは、この先、平成生まれや令和生まれに馬鹿にされても仕方ないな。
「米兵にもらったチョコの味はどうでしたか?」
とか聞かれちゃうのかな。
「ああ、最高だったよ。」
とか答えると思う。

眠いので寝ます。
眠いときに文章を書くと大抵粗相をするので、人様のことは眠くないときに書きます。

おかあさんといっしょに関して一つだけ述べるなら、これですね。

これが「推せる」という思いか

オレオレ詐欺や結婚詐欺、出会い系サイトのサクラ詐欺などを見たり聞いたりするたびに、犯人が許せないし被害に遭われた方が本当にお気の毒だと思いつつ、「なんで簡単に騙されちゃうの?私はこんなことじゃ騙されないから大丈夫」と、どこかで自分とは関係のないことのように思っていた。

でも今、メールなりLINEなりで
「まことお兄さんだけど、今ちょっとお金に困ってます」って連絡が来たらそれなりにまとまった額持っていくし、「あづきお姉さんだけど、体操の勉強するのにお金が必要なんです」って連絡が来たら、かなりまとまった額持っていく。
何なら、「まことお兄さんだけど、あなたからお金騙し取るから持ってきて」って言われても持っていく(「ハイキュー!」より。)。
まことお兄さんとあづきお姉さんはそんなことしないってわかってるはずなのに、万が一!万が一ね!って思って持っていく。典型的な詐欺被害者である。

騙されずに課金するために、ファミリーコンサート当たってほしいし、雑誌やDVDが早く出てほしい。
それと、そろそろ本気で順天堂大学体操競技部への寄付を考えているのだけど、形式的には一万円から可能とはいえ、高額な用具や設備を取り揃えているあの順天堂大学、あの体操競技部からすれば、100万円以下の寄付などかえって失礼だし手続きのご負担をかけてしまうのでは…?と勝手に考えて二の足を踏んでいる。
この件に限らず、カッコ良く寄付やチップを渡せる大人になりたい。
それができないので、好きなものやあり続けてほしいものは、なるべく新品で買うようにしているし、何なら複数買いもする。
まことお兄さんとあづきお姉さんのDVD、ちゃんと一枚で止めるんだぞ、と言い聞かせる一方で、どこからか、ちゃんと複数買うのがファンだろ、という声もしている。
こわいよ!

まことお兄さんとよしお兄さんを見て思った、体操、さらにはおかいつの優しさ その1

この記事は、「まことお兄さんを見て思った、体操とは?」の続きです。
今回の記事では、おかあさんといっしょの体操って、結局何のためにあるの?どうなれば成功なの?
何かクドクド書いてるけど、一体お前は何をまことお兄さんに要求してるんだ?ということについて書きます。

私は、おかあさんといっしょの体操の一番の目的は、「子どもが楽しい時間を過ごすこと」だと思っています。「子どもが『体操って楽しい』と感じること」と言い替えてもいいです。
歌も同じ。人形劇も同じ。
とにかく、楽しい!嬉しい!幸せ!って思ってもらうこと。
極端な話、振り付けが完璧だけど子どもたちが特に楽しいとは思っていない場合と、どの子も振り付けなど一切守っていないけど心から楽しかった!と思った場合なら、断然後者の方が番組として成功していると思います。
たとえインターネッツで「ちょwww今日のおかいつ、崩壊ww放送事故www」と言われようと、子どもたちが楽しく過ごせていればそれでいいと思います。
もちろんこれは極端な例です。
できなくても楽しければいいけれど、他方で、新しいことをできるようになる喜びや楽しみも世の中にはたくさんあります。
そして、子どもたちにそれを教えてくれる心強い存在の一つが、おかあさんといっしょをはじめとするEテレコンテンツです。
出来不出来にこだわらないプリミティブな楽しさも、成長段階に応じた、出来る喜び、わかる楽しさも教えてくれる。
一見矛盾するかに見える異なる次元の喜びを、体操ひとつ、お歌ひとつで魔法のように魅せてくれる。
正直、課金し足りないです。

では、どのような次元のものであれ、子どもに楽しんでもらうために、大人であるお兄さんお姉さんができる、あるいはすべき、最も大切なことは何か。

それは、子どもたちに寄り添い、受け止めること。
さらに、出会った子どもたちを平等に好きになり、愛情を注ぐこと、ではないかと思うのです。
そしてこれを初対面、かつ一期一会の子どもたちに対してなしとげるには、平素から絶え間なく
「僕は君のことを待ってるよ」
「私はあなたのことが大好きだよ」
「どんなあなたにだって会いたいよ」
「どんな君だって、間違いじゃないよ」
「離れてたって、心はいつも隣り合わせだよ!(名曲)」
という受容のメッセージを、言語であれ非言語であれ発信し続ける必要があるのではないでしょうか。

このように考えるのは、よしお兄さんとりさお姉さんの卒業アルバムで、お二人が語られていた内容に大きな感銘を受けたからです。
お二人は、おかあさんといっしょで大切にしていたこととして、子どもに寄り添うこと、目の前の子どもに愛情をもって接すること、子どもに教えるのではなく、ともに楽しみ成長していくこと、などを挙げておられました。
お二人それぞれがご自分の言葉で語っており、細かい言い回しなどは当然違うのですが、その背後にある理念や価値観は、お二人とも共通しているように感じられました。

そして、卒業アルバムを読んだ後で、お二人が出ていた昨年度のおかあさんといっしょを見ていると、お二人はもちろんのこと、ゆういちろうお兄さんとあつこお姉さん、さらには番組全体のつくりが、子どもたちを肯定して、受け止めて、楽しませるための、たくさんの優しさに満ちていることに、改めて気付かされました。
ブンバボンを見て、思わず涙するほどに。

それって、具体的にどんなこと?まことお兄さんとあづきお姉さんはそうじゃないの?そうじゃないならどうすればいいの?という点については、また次回…と思いましたが一つだけ!

よしひさお兄さんのこと、当初は(今も?)「よしお」だと思っていた方、大人でも子どもでも多いと思います。
自分の名前って、誰しもそれなりに思い入れのあるものだと思うんです。
かくいう私も、結婚して「はぎわら」的な姓になったのですが、「おぎわら」的に間違われるたびに、「ア…(まあ…訂正しなくてもいいか…)」と、ほんのちょっと、ほんのちょっとですが確実に気力が減るんです。
そして、名前を正しく呼んでくれる方は、それだけで好感度がアップしてしまう。
芸能活動をしている方ならなおさらで、仕事をする上で名前をしっかりと覚えてもらうのって、とても大切なことだと思うし、そこにこだわる方も少なくないと思うんですね。
でも、よしお兄さんは違う。違った。
子どもたちがどうしたら自分のことを呼びやすいか。
それが何より大切だったから、それが最優先事項だったから、だから、よしお兄さん。
本当に本当に、優しい。

それと対比したときに、どうしても気になってしまうのが、まことお兄さんとあづきお姉さんのお名前の表示です。
どうして、二歳児から四歳児を対象とした番組で、「福尾誠」「秋元杏月」と表記するのでしょう。
保護者向けの表記なのかとも思いましたが(体操監修・佐藤弘道、的な)、番組の他の場面では、保護者向けにスタッフを表示する場合、フレームをつけずにシンプルな文字だけの表記がなされています。
まことお兄さんとあづきお姉さんの場合、フレームはメルヘンなんですよね。つまり子どもに向けてあえてあの表記で名前を出している。
「一部の専門職、結婚して改姓すると実績途切れちゃうからあえて旧姓のまま仕事する問題」同様に、研究者や競技者としての実績とリンクさせたいからなのかな?それとも他に理由があるのかな?とも考えましたが、ふりがなを振ることもしない、できないのかな。

もちろんこのことだけで、まことお兄さんやあづきお姉さんや番組そのものに不信を抱いたりはしません。
こんな些細なことを気にするこちらが面倒な人間なだけかもしれません。
また、過去にはこのような表記がごく普通になされていたのかもしれません(この点はリサーチ不足ですみません)。
でも、「花田ゆういちろう」「小野あつこ」「小林よしひさ」「上原りさ」の表記に慣れ親しみ、それを当然のように受け取っていた身からすると、こんな些細なこと一つでも、そこには子どもに対する誠実さや優しさが溢れていたように思うのです。

次回はこういう具体例をたくさん書くことで、これまでに日本中世界中でたくさんの親子が受け取ってきたであろう優しさや肯定のメッセージについて表現できたらと思います。
また、まことお兄さんとあづきお姉さんについても書きますが、誰かと比較して叩くようなことはしたくないですし、しません。
二人はとても素敵だし、私はもうすっかり二人のファンなので!