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まことお兄さんとよしお兄さんを見て思った、体操、さらにはおかいつの優しさ その3

この記事は、「まことお兄さんとよしお兄さんを見て思った、体操、さらにはおかいつの優しさ その2」の続きです。

この記事では、おかあさんといっしょという番組の構造そのものが、とても優しく子どもたちを受容し、肯定していることについて書きます。
いつものとおり、私見です。

私がここで挙げたいのは、大きく分けて2つ。
1つ目は、間違えることを当然のこととしつつ、その責任を子どもたちに負わせず、かつ間違えることは恥ずかしいことではないと自然に伝えてくれる仕組みです。
たとえば、しりとり列車。
みんなの声を聞いて、単語のボードを列車に乗せるのは、運転手さんと車掌さんです。
そこで間違えたとき、「ショック~」を受けるのも、このふたり。
シルエット博士なら、間違えて「ハズレット!」と言われ、首をかしげるのはムームー。
プリンセスミミィなら、外れのサウンドに肩を落とすチョロミー。
そしてすりかえ仮面なら、子どもたちの「わからない!」の声に答えて「もう一回みせて?」と誰より優しい声で問いかけるのはあつこお姉さんでした。
彼ら、彼女らは、子どもたちの間違った声を、自分の答えという形で代弁します。
そしてその答えが間違いだとわかったときも、絶対に子どもに責任追求などしません。
「君の答えが間違ってたみたい!」なんて言わない。
私の答えが間違っていた、さあ次はどうしよう?と、子どもたちに間違い役を負わせることを回避しているのです。
そしてまた、彼ら、彼女らは前向きです。
間違ったことにリアクションはしても、すぐに、どうして間違えたんだろう?ありゃりゃ?がーん!じゃあこれかな?…エラーの検証をしたかと思うと、正解に向かってまたすぐに考え出します。
その姿には、「間違うことは当たり前で、恥ずかしいことなんかじゃない」「間違ったらまた考えればいいんだよ」という前向きなメッセージが込められているように感じます。
間違えることは恥ずかしくなんてないのだから、子どもたちに直接間違える役を負わせてもよいのかもしれません。
しかし、テレビの収録、原則一発録り、親御さんとも少し離れた場所にいるという特殊な環境において、まだまだ心が成長中の子どもたちをその役目に置くのは負荷が大きすぎますし、間違えた子どもと正解した子どもという役割分担をさせることで、分断が生じたり、ときには収拾がつかなくなるおそれもあり、やはり、現行の形がベストであるように感じられます。
間違えるのは当たり前!落ち込まなくていいんだよ!みんなで一緒に楽しく考えよう!というメッセージ。
これもまた、大いなる受容です。

ところで、パント!は正解や間違いという概念のない、自由な身体表現のコーナーであったのに対し、ガラピコにんじゃしゅぎょうは修行達成という明確な目標が定められたコーナーであり、それゆえに、理屈の上では失敗もありえます。
この先おそらく、様々なこどもたちと様々な修行がお目見えする中で、コーナーがどのような展開を見せていくのか、気になるところです。

次に、体操からフィナーレにかけてのカタルシスについて。
個人的に、「べるがなる」は、全ての子どもたち、何なら大人たちにも向けられた、大いなる祝福の歌だと思っています。
この歌の主体は、「きみ」。
つまり、子どもたちであり、私たちです。
「元気にべるをならすきみ」がいたから、ぼくはあるきだす。
きみの胸の中で小さく響いていたべるは、ぼくによって見つけられ、大きく奏でられ、きみとぼくは出会い、みんなでべるをならしてお祝いする…これが全ての人に向けられた祝福でなくてなんだというのでしょう?
番組の中で、お兄さんお姉さんは、目線、表情、声といった、子どもに向けたあらゆる立ち振舞いによって様々な歌やコーナーを形作ってきました。
そうやって、子どもたちを見つめ続け、受容し続けてきた一連の流れが、ここにきて再確認され、最大の熱量で表明されます。
総決算としての受容と祝福が改めて行われ、そして少しの寂しさと切なさを感じさせる、いっぱいさよなら、ばいば~い、で幕を下ろす。
素晴らしい構成です。
ここでとにかく心に留めておかなければならないのは、べるがなる、は「きみ」、つまり子どもたちのための歌であるということ。
だから、「げんきにべるをならすきみ」のときに差し出されるあの手は、「げんきにべるをならすきみを見つけたよ」「きみのことだよ」という受容のメッセージを発することに徹していなければならず、決して「『げんきにべるをならすきみ』という振り付けを踊るぼく」であってはならない。
そのためには、正しく踊らなくてはなどと考えてい てはならず、無意識に体が動くくらいの状態で、心を「きみ」に向けなければならない。
また、トンネルで手を振る場面では「手を振るぼく」ではなく、「手を振られているきみ」に意識が向けられていないといけない。
あらゆる場面が、「きみ」のため、「きみ」を祝福するために存在しなければならない
これを表現するには、相当の経験と意識的な心の持ちようが必要だと思います。
そしてさらに大変なのが、「きみ」とは、目の前にいる子どもでもあり、かつ、テレビの向こうにいる日本中、世界中の子どもでもあるということ。
スタジオの子どもたちに目を向け続けていてはテレビの向こうにいる子どもたちを見つめられませんし、カメラ目線だけではスタジオにいる子どもたちは拒絶されたかのように感じてしまう。
きみがどこにいても見ているよ!と表すためには、絶妙なバランスが問われます。
これをあの、チョロミーの星やらガラピコのパネルやらムームーのペンダントやふわふわの毛並やらに夢中の子どもたちがごった返す中で、子どもたちの安全を確保しつつ(全ては安全であることが前提)限られた時間でやってのけなくてはならないのですから、お兄さんお姉さんに問われる思考力、判断力、そして何よりも表現力は、相当にレベルの高いものだと言えます。
しかもどの能力も、瞬発力と持久力を兼ね備えていないといけない。

こうして、「きみのこと見つけたよ!」「きみに会えて、ぼくのこころのべるが鳴ったよ!」「きみに会えたこと、きみがいることをお祝いしよう!」という、あらゆる「きみ」への祝福、すなわち、どんなきみでも見つけたよ、受け止めたよ、どんなきみでも素晴らしいんだよ、というメッセージを発して、その日のおかあさんといっしょは終わります。
そしてまた、次の日には新たな受容と祝福が繰り返されます。
すごすぎる。

かつて、よしお兄さん、りさお姉さんが、どんなに優しく子どもたちを受容してきたか…その表情、仕草、声が、どれだけの経験と配慮によって作り出され、どれだけ多くの子どもたち、そして大人たちを励まし慰めてきたか…それは多くのおかあさんたちが身をもってわかっていることだと思います。
そしてその大役を引き継いだのが、ご存知、まことお兄さんとあづきお姉さん。
当初のガチガチぶりも、そりゃそうでしょ、という話ですし、日を追うにつれて次第に柔らかくなっていく様子は、心から応援せざるを得ないし、これから先に期待するしかない。
二人の心に確かに存在している(と、私は信じています)、子どもたちを受容し祝福する心、単純に言ってしまえば、ありのままの子どもたちを好きになり、愛する心が、この先どんどんと成長し、画面から溢れ出すことを、大いに、大いに、とってもとっても!期待しています。
そして、60年にわたって、子どもたち、大人たちを受け止め続けてくれている偉大なるコンテンツ、「おかあさんといっしょ」に、改めて心からの感謝を捧げ、長々と書き連ねてきたこの項を閉じたいと思います。

追伸
ファミリーコンサート、初日おめでとうございます。
全ての人にとって、素晴らしい日々となりますように!