緊張と緩和と臆病と大胆

書きたいことだけ

息子が赤ちゃんじゃなくなった日

一般的には一歳を過ぎると乳児から幼児、赤ちゃんから子どもへと呼び方が変わるようだけれど、我が家では、息子が一歳を過ぎても「赤ちゃん」の呼称がバリバリ現役であった。
1歳0ヶ月当時の息子は、体が平均より小さく、ぷくぷく太ってむちりむちりとしていた。
振る舞いも、ばぶばぶ!ばぶりばぶり!おぎゃ…オギャリ~!!といった様子で、立つ気配や話す気配など全く感じられず、まだまだ赤ちゃんそのものだった。はあ可愛い。
それに、私も夫も初めての赤ちゃんを我が家に迎えて、赤ちゃんそのものはもちろんのこと、「赤ちゃん」という単語の可愛らしさにすっかり夢中になっていた。
私が息子のむちむちあんよを揉んで息子がキャッキャと喜べば「赤ちゃんマッサージだ!」、サッカーを見れば「息子ちゃんは赤ちゃん日本代表だね」「赤ちゃんファンタジスタだね」「可愛くて誰もタックルできないね」、ニュースで警察が出てくれば「赤ちゃん刑事(デカ)息子…」「あまりの可愛さにホシが勝手に泣きながら自白を…!」
…と、馬鹿な会話をする中で、息子の可愛さと、赤ちゃんという言葉の幸せな響きを堪能していたのであった。

ある日、夫が職場の後輩たちとフットサルをするというのでついていった。
息子はエルゴの中で私に抱かれていた。
息子はこの頃、やっとのことでよち…よち…と歩き出したくらいだったが、初めての場所を怖がることが多く、母にしがみついてヒンヒンと泣き、落ち着いてからようやく動き出すこともあれば、泣き通しのままとうとうお出掛けが終わってしまったこともあった。
私はそのことに焦ったり、悲しくなったり、なるようにしかならないと開き直ってみたり、楽しめない息子に腹を立てたり、楽しむ術を教えることもできない自分にうんざりしたりしていた。
親子一緒に楽しいお出掛けのはずが、いつ爆発するのかわからない爆弾を抱えているようで、どこにいてもヒヤヒヤドキドキと祈るような時間をやり過ごし、楽しさも感じられないままそれらしいイベントをこなして、ようやく終わればホッとする…こんな自分が嫌だった。
息子の可愛さを見失いそうになる未熟な自分がとても嫌だった。

フットサルの会場で、予想に反して息子は泣かず、芝生の上に降りたがった。
ヨイショと下ろすと、平然とトコトコ歩いていき、アップをしているユニフォーム姿の夫に近づいて、へけけっ、と楽しそうに笑っていた。
私も夫も大層驚いた。
一方、ご機嫌な息子は、その日一日トコトコ歩き回り、見知らぬお兄さんや施設のスタッフさんに声をかけてもらってはへけへけ笑っていた。
夫も私も、少し息子を見くびっていたね、過保護にしすぎたね、と反省した。

それから数日後、天気の良い日の午後。
東日本大震災からちょうど8年が経った日だった。
私はマンションの敷地内で息子と外遊びをしていた。
建物の影で肌寒いアスファルトの上で、息子が手渡してくる小石やアスファルト片を受け取りながら、もう少ししたら部屋に戻ろう、黙祷をしたいが息子の昼寝のタイミングはどうだろう、などと考えていた。
あれこれ考えていると、崩落した職場の天井、傾いたビル、燃える建物、いなくなってしまった人たちのことがとりとめもなく浮かんできた。
私よりずっと優しくて、頭が良くて、仕事が大好きで、誇りを持っていて、皆の幸せを願っていた人たち。
その人たちがいなくなって、私が平然と生きているのが心底不思議だった。
息子に生きる楽しさも教えられない私が、何故生き延びたのか。

私がぼんやりしていると、息子が唐突にすくっと立ち上がった。
そして、手を取る間もなく、一人で歩いていった。
息子は、トコトコトコ、と、日影から日向へと歩き、歩き、歩き、転ぶこともなくどんどん歩いていき、太陽の光を全身に目一杯に浴びて、柔らかな髪の毛やふくふくとした頬やぽこりとしたおなかやまるいおしりの輪郭をまぶしく輝かせながら、私の方に振り向いた。
そして、へけけっ、と笑うと、こっちにおいでよ、とでも言うように両手を私に向かって差し出して、「あ!!」と元気良く叫んだ。
世界が息子を中心に、きらきらと光っていた。

その日の寝かしつけで、息子に「今日は一杯歩いたね、すごかったね、楽しかったねえ」と言うと、息子は得意そうにウフフ…と笑い、私の手を自分の頬に押し当ててスヤスヤと眠りについた。
わかっているのだ。
これはもう、息子のことを赤ちゃんとは呼べないなと思った。
帰宅した夫に一連の出来事を話し、だからもう息子は赤ちゃんじゃないと思う、と言うと、夫は「そうか、息子ちゃんは赤ちゃん卒業かあ…」と微笑んでいた。
「赤ちゃんの息子ちゃんがいなくなっちゃったね、もう会えないね」と言うと、とても寂しくなって泣けてしまった。
夫は笑いながら、「赤ちゃんの息子ちゃんに会えなくなっても、いつの息子ちゃんもあなたのことが大好きだよ。赤ちゃんに負けないくらい可愛い呼び方を考えよう」という趣旨のことを言っていたけど、やはり少し寂しそうだった。

今年の3月11日、息子は赤ちゃんじゃなくなった。
赤ちゃんの息子にはもう会えないけれど、赤ちゃん改め坊やになった可愛い息子は、今日も元気に笑ったり叫んだり泣いたり怒ったりしている。
育っていて、生きている。