緊張と緩和と臆病と大胆

書きたいことだけ

まことお兄さんとあづきお姉さんに対する考察、願望、そして体操とは?

ヤバい人がヤバいことを書いてるな…と思っていただければ結構です。



まことお兄さん、ハンカチめっちゃピシーッとしてそう

まことお兄さん、そのハンカチからほのかに、でもとんでもなくいい香りしそう

まことお兄さん、そろそろカルビよりハラミ派

まことお兄さん、スーツのときはコスチューム同様足首チョイ出しして遊び心あるフォーマルスタイルを演出しそう

まことお兄さん、家事のときはエプロンちゃんとつけそう

まことお兄さん、家を出るときに玄関のとこに置いてある鏡で表情チェックしてそう

まことお兄さん、写真を撮るときに小顔を忌避され、隣に人が来てくれなくてちょっとしょんぼりしてたらかわいそかわいい







あづきお姉さん、ビュッフェに連れていきたい
「うわーっ!ぜーんぶ美味しそう!」って言われたい

あづきお姉さん、新入社員として直属の部下になってほしい
ことあるごとにお菓子を振る舞いたい

あづきお姉さん、髪の毛切った次の日にドキドキした顔で「切りすぎちゃったかも…変じゃないですか?」って言ってほしい

あづきお姉さん、会社の飲み会で一発芸を求められ、変顔して拍手喝采を浴びた後で照れてほしい

あづきお姉さん、めちゃくちゃご飯食べる人だったらかわいすぎる

あづきお姉さんが落ち込んでるときに、みんなに秘密にしてる、私とっておきのカフェに連れていってホットケーキご馳走したい

仕事を頑張りに頑張った後で、あづきお姉さんに「すごい!がんばりましたね!」って言ってほしい




それはそうと、よしお兄さん、りさお姉さんの卒業アルバムを読みました。
それを読んで思ったのが、あの番組におけるお兄さんお姉さんの役割というのは、表現者であることよりも、むしろ受容者であること、なのではないか、ということ。
つまり、一般的な体操競技が、演技者による表現→採点者による観察と評価によって完結するのに対し、おかいつの体操は、表現→観察する子供たちによる受け止め→受け止めた子供たちによる発信、表現→お兄さんお姉さんによる受け止め、受容という流れを辿るため、競技としての体操とは、役割の逆転現象が起きているのではないかと。
だとすると、ストイックな体操競技界に身を置いていたまことお兄さんにとっては、同じ体操というくくりであっても、実質的には真逆の役割が求められているわけで、これはもう非常に大変なことに挑戦しているのではないでしょうか。
そして、それを難なくこなしていた(ように見えた。だって最後の一年、円熟の一年だもの)よしお兄さんとりさお姉さん、やはりとんでもなく、とてつもなく偉大。
三月のブンバボンやべるがなるを見て、なんて優しく子供たちを受け止めているんだろうと、思わず泣いてしまいました。

また、一般的な体操競技とおかいつのパフォーマンスの違いとしては、個と集、先端と均等、という点も無視できないと思っています。

これだけじゃ意味不明なので、今後もうちょっと詳しく書きます。