緊張と緩和と臆病と大胆

書きたいことだけ

魔法の壺

ある地方都市に素敵なバーがある。
お城のように真っ白で優美な曲線を描く階段で地下に降り、一見壁にしか見えない扉をそっと押すと、マスターと若いバーテンダーが迎えてくれる。
鼈甲ぶちのメガネといつも違うネクタイがチャーミングなマスターと、切れ長の目をした、背が高くて、額の形がきれいな男の子のバーテンダー

バーの名物は、フルーツのカクテルと、マスターが海外で見つけてくるウイスキー
マスターと若いバーテンダーの二人がともにカウンターにいるとき、フレッシュフルーツのカクテルを作るのはマスターの仕事。
その間、若いバーテンダーは、ウイスキーを注いだり、チーズを切ったり、グラスを拭いたりして、さらにその合間には、マスターの手元を注意深く見つめている。

たまにオーダーが立て込むと、マスターの指示で、若いバーテンダーもフルーツのカクテルを作ることがある。
その時彼は、ほのかに嬉しそうな誇らしそうな顔になって、いつもしゅっと伸びている背筋を、さらにぴんとさせる。
黒いベストと蝶ネクタイも誇らしそうに見える。
そして、柔らかな果物を注意深く手に取り、優しく取り扱う。
出来上がったカクテルを客が口にする様子を、何てことない、というような顔で、でも気になるのが隠しきれない様子でそっと見る。
美味しい、と言うと、子犬がぴょこっと耳や尻尾を動かすように、きゅっと口を上げて笑顔になる。
いつもシャープな切れ長の目が、三日月型になる。
あるときはマスターに、喜びすぎ、と言われていた。
またあるときは、果物の産地や、完熟の果実の儚さや、いかに管理に気を遣っているかということを、客から問われるままに嬉しそうに話し、マスターから、語りすぎ、と言われていた。

マスターが休みの日は、若いバーテンダーが一人で店を守る。
マスターがいるときよりも少し緊張しているように見えることもあれば、伸び伸びしているように見えることもある。
基本的には淡々と、飲み物を作ったり、丸氷を削ったり、ハムを皿に乗せたり、雛鳥に触れるようにそっと無花果を手に取ったりしている。

一度、店内にいるのが若いバーテンダーと私の二人だけになり、雑談が盛り上がったことがあった。
話が弾むのは、彼が接客のプロで、私のとりとめのない話をうまく受け止めて、ふわりと絶妙に投げ返して、話を弾ませてくれているからだった。
私はさほどアルコールが強くないので、バーでもそんなにたくさんは注文できない。
なので、酔いが回っているけどもう少しここにいたいな、というときには、店側に差し支えがなければ、バーテンダーになにか振る舞うことにしている。
バーによっては、客からの申し出に対してはこの飲み物、と決まっているところもあるらしい。
その日の若いバーテンダーは、ビールの小瓶を嬉しそうに抜栓し、切れ長の目を優しく細めて少しずつ飲んでいた。
この日、私が来る前に、店で少し揉め事があったとのことだった。
彼は、自分の親ほど年上の男性客の揉め事を、マスター不在のなかで何とか穏やかにおさめられたことに安堵しているようだった。

そうやって話し続けているうちに、店で定められている閉店時間がやってきた。
名残惜しいけどそろそろ立ち去ろうと思っていると、その様子を見て、若いバーテンダーがいたずらっぽく微笑んだ。
彼は、今日はとても楽しかったのでもう少し飲んでしまいます、あなたにこれ以上お出ししてもらうわけにはいかないので、ええと、と言いながら、バックバーのきらきら輝くガラス瓶の群れの影から、何もラベルのついていない大きな透明なガラス瓶を、ひょいと片手で取り出した。
瓶は、鶴の首のように細く伸びた後、下の方が丸っこく膨らんでいて、妖精や魔神の類いを閉じ込める壺のようにも見えた。

彼はニヤッと笑うと、きちんと計量してお出ししていても、中途半端に残ってしまうウイスキーはどうしても出てきちゃうんです、そういう、一杯取れずに残った子達をこの瓶にどんどんためていくと、このお店だけのブレンデッドウイスキーができるんです、僕たちだけがたまにこっそり飲むんです、内緒ですよ、と、瓶とその中身の正体を説明してくれた。
彼は、小さなグラスに瓶の中身を注ぐと、ストレートで美味しそうに飲んだ。
そして、疲れが滲んでいるけど充実した顔で、今日はいろいろあったけど、僕は今とても楽しいです、と微笑んだ。
私が、それは良かったです、と返事をすると、そうですね、とても良かったです、と笑みを深くした。
きっちりセットされていた前髪の一筋二筋が、はらりと額に落ちていた。

その後、店を再度訪れたところ、ウイスキーのボトルがちょうど空になる場面に立ち会ったことがあった。
年配の男性客の注文で、年数を重ねた、かなり高
級な一本だった。
若いバーテンダーが、規定の量を注意深くグラスに注いだ後でボトルを見つめ、ああ、これで最後ですね、底にほんの少し残っているけど、もう一杯ぶんはないです、と誰に言うともなく言った後で、こちらを見て口元だけでニコッと笑い、あの瓶の置かれている方にちらりと目線をやって見せた。
またあの瓶に、楽しい秘密が注がれる。

あのガラス瓶を見たのは一度だけで、その記憶もアルコールと時間の壁に阻まれてずいぶんふわふわしている。
それに、一人の客に過ぎない私が、その中身を飲むことは決してできないし、それを望んだりもしない。しなかった。

でも、秘密を手渡された甘酸っぱい幸福感は、今もちゃんと心の中に残っている。
そして、あの素敵な空間の中で静かにきらきら光っているガラス瓶と、世界でたったひとつの美味しいお酒のことを考えると、それだけで、何だかとても愉快で満ち足りた気持ちになるのだった。

という、本当かつくりものかわからないお話。